梨 の 歴 史


千葉県の梨栽培の起源は市川市

梨は大変古くから日本人に親しまれてきた果物のひとつで、万葉集の中にも
その名が出てくるほどです。日本書記にも五穀「米・麦・粟・豆・黍」の助けのために、
栗や桑などと一緒に植えられたと記されています。
市川の梨は江戸時代から「八幡梨」としてもてはやされ、
桃、苺とともに江戸そして東京の人に愛されてきました。

市川市は千葉県の梨栽培の起源といわれています。
今から約230年前、八幡村(現市川市八幡)の川上善六は、
何を作ってもうまくいかない村の砂地と格闘していました。
あるとき、善六は江戸市民向けの梨栽培を思い立ちました。
そして、尾張・美濃地方で梨栽培が盛んであることを知り、
諸国漫遊を試みました。美濃(現 岐阜県大垣市)を訪れた善六は、土質が八幡と似ていることに気づきました。
善六は、梨の枝を数本もらい、旅の間に枯れないように大根に切り口を挿すなどして持ち帰りました。
八幡に帰ってきた善六は、八幡宮の別当寺である法漸寺境内で接ぎ木をして梨園を開きました。
3年後、みごとに梨が実り、江戸の市場で高値で取引されるようになりました。
善六は、村の農家の人々にも梨栽培の方法を教えました。
数年後、八幡村を中心に梨栽培が盛んになり、「八幡梨」として江戸の市場を賑わすようになりました。
今でも市川市は千葉県内1位の梨生産高を誇る梨生産地となっています。

また、俳人・歌人である正岡子規も八幡梨を食べたと本人の日記に書いてあったそうです。
正岡子規は梨好きでもあったらしく多くの梨の句が残されています。

   「梨むくや甘き雫の刃を垂るる」   子規


                   「江戸名所図絵」より               
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